こんにちは!ちくです!
サッカー歴30年以上の大ベテランで、日々サッカーの研究をしているサッカー研究家です!
サッカーに『夢中』になる人を増やすために発信をしています。
今日のテーマは厳しい指導についてです。
ボク自身もサッカーの指導者としてスタートしたので、自分に対する戒(いまし)めとして今日の記事を書いていこうと思います。
最初に結論から言わせてもらうと
厳しい指導は必要である
ボクはこのように考えています。
ですが、厳しい指導と言っても多くの人が思うような
- 理不尽な練習
- 叱責
- 体罰
ではありません。
逆にこれらは全く必要がないと考えています。
未だにこれらがなくならない話を聞くと本当に悲しくなります。
『理不尽な練習』『叱責』『体罰』は日本のスポーツの世界から消えてしまった方がいいです。
でも「さっき厳しい指導は必要」と言ったじゃないかと思っていますよね。
ボクはサッカーの研究を続けるうちに、本当に必要な厳しさというものが何かわかってきました。
ですので、今日は『正しい厳しい指導』とはなんなのか?をしっかりと考えていきたいと思います。
今現在も続けられる『理不尽な練習』や『体罰』
ボクの小学5年生の姪っ子がバスケットボールをしています。
今からする話はバスケットボールの話ですが、サッカーにも当てはまる話なのでここで取りあげさせていただきます。
先日、姪っ子のコーチが辞めさせられたという話を聞きました。
ちょっとびっくりしますよね。
内容は
そのコーチはもともと教えるのがうまく、教えられて実力が上がる生徒もたくさんいたそうです。
ですが、教え方がとても『厳しく』、いつも『怒鳴り声』を上げ続けているのが当たり前の状態で、子どもが泣き出しても『叱責』し続けていたそうです。
それがあまりにもひどくなり、辞めていく子どもも増えていました。
そしてとうとう泣かされ続けた子どもの親が立ち上がり、コーチに辞めてもらうという審議を経て、最終的にコーチは首になりました。
この話はバスケットの話ですが、サッカーでも同じような話は未だに聞くことがあります。
このコーチは実力はあったのに、なぜ自分自身が辞めさせられるまでこのような指導をやめることができなかったのでしょうか?
よく聞く話で、
昔は厳しい指導ができたけど、今はできなくなったから自分自身を厳しく律しないといけない
というような話があります。
ここで言う、『厳しくできた』というのは何を意味するのでしょうか?
おそらく
- 理不尽な練習
- 叱責
- 体罰
のことだと思われます。
なぜなら、「昔はできて、今はできない指導」というと体罰や理不尽な練習以外に考えられないからです。
そして、先ほどのバスケットボールの例から見ると、今現在もなお、上のような『行き過ぎた指導』は無くなっていないことがわかります。
指導者側から見ると、少しやりにくくなっているという程度のような気がします。
なぜ『理不尽な練習』や『体罰』はなくならないのか?
『理不尽な練習』や『体罰』がなくならない理由はいろいろあると思いますが、ここではボクが思う理由で大きいものをいくつか挙げていきたいと思います。
なくならない理由は
- 自分がやられてきたから
- 過去を正当化するため
- 怒鳴りつけると言うことを聞くようになるから
- 威厳を保つため
- 指導者は孤独だから
ざっくりとこれらの理由が考えられます。
順番に見ていきましょう。
自分がやられてきたから
これは一番大きな理由だと思いますが、自分がやられてきたことをそのまま教えるパターンです。
ボクが子どもの頃は監督やコーチが子どもを怒鳴りつけるのが当たり前でした。
ボクはやられたことはないですが、大きな大会に行くと、隣でバンバン監督に叩かれている子どもを見ることもしょっちゅうあったんですね。
当時はスポーツの世界ではそれが当たり前だと思っていました。
そうやって育ってきた子どもが大人になったら、自分の生徒にも同じように接する可能性は高いですよね。
虐待された人が親になったときに、同じように自分の子どもを虐待するのと似ているところがあると思います。
ボクもそうですが、こうやって自分で「教え方」などを調べていなければ、自分がやられたことをそのまま生徒にやっていたかもしれません。
過去を正当化するため
上の「自分がやられてきたから」と少しかぶりますが、人間は自分がやってきた道は正しかったと思いたい習性があります。
要は「今の自分があるのは、あんなに辛いことに耐え抜いたからだ」と思いたいということです。
特にスポーツ界で成功した人が、自分の過去に理不尽な練習や体罰に耐えてきたことを語ることで、正当化が強化されます。
過去が正当化されたらそれが正しいものとして自分の生徒にもおこなってしまうということです。
有名選手のお墨付きとなるとなおさらですよね。
怒鳴りつけると言うことを聞くようになるから
当たり前ですが、子どもは怒鳴られるとその時は言うことを聞くようになります。
手っ取り早く言うことを聞かせようと思うと、怒鳴り声を上げるのが一番簡単です。
そして、言うことを聞かせるために怒鳴り声を使っているとだんだんとエスカレートしていきます。
言うことを聞かないと必ず怒鳴る。それが当たり前になると今度は殴るに発展していく可能性があります。
小さいことから始まってしまうこともあるということです。
威厳を保つため
「親としての威厳を保つために厳しくする」という人がいます。
上下の関係を維持するために、怒鳴ったりするというわけです。
ボクは高校生のときに先輩後輩の上下関係で同じような経験をしました。
ボクの高校では1つ上の先輩が後輩に罰走を命じていい決まりがあったのです。
学校で先輩に会ったときに、先輩に挨拶していなかったとかいう理由で練習後に罰走をさせられます。
これがめちゃくちゃきつい訳ですw
みんなその罰走が嫌だから、挨拶は完璧にやっているはずなのに理不尽に理由をつけて走らされました。
すべては上級生が後輩になめられたくないからという理由です。
多くの人は怖いと思わせれば「威厳が保たれるだろう」とか、「歯向かってこないだろう」と思いがちです。
ですが、逆効果な場合がほとんどです。
少なくともボクは、先輩の理不尽な態度に反発を覚え、仲良くやろうという気にはなれませんでした。
指導者は孤独だから
ボクも子どもを教える立場になってわかったのですが、指導者は孤独です。
教えてもすぐに出来るようにはならないのが普通だし、理解しているのかどうなのかわからないこともたくさんあります。
人は長いスパンで成長するものなので、結果が出るまでにどうしても時間がかかります。
自分が伝えていることが合っているのか確証はないし、すぐに相談できるような人もいないのが現状です。
ゆえに、結果を求めたくなりがちです。
結果が出れば自分のやってきたことが正しいと証明できるからです。
結果を求め始めると自分の言うことを実行できない子にいら立ちを覚えます。
子育てしていていくら言っても聞いてくれない我が子にイライラするのと同じですね。
その結果、怒鳴ったり、威圧したりする行動に出てしまいます。
なぜ『理不尽な練習』や『体罰』はいらないのか?
では本当に『理不尽な練習』や『叱責』『体罰』はいらないのでしょうか?
絶対にいりません。
ボクが思う理由は3つです。
- 多くの人がサッカー界から去ってしまう
- 怒られないとやらなくなる
- 体罰がなくても上手くなれる
これですね。
順番に解説します。
多くの人がサッカー界から去ってしまう
先ほどのバスケットボールの例からも明らかですが、『体罰』などの行き過ぎた指導によりサッカーを辞めてしまう子が増えます。
違うクラブにうまく移籍してくれればいいですが、トラウマになってサッカー嫌いになった人も大勢いることでしょう。
この先ますます少子化の時代になっていきます。
ただでさえ、サッカーを始める人口は少なくなるのです。
時代が移り変わってきていることで、さらに行き過ぎた指導を受け付けない人も増えていくでしょう。
サッカーの将来のことを考えるなら、サッカー人口を減らす行為をしている場合ではないはずです。
怒られないとやらなくなる
多くの人が感覚的にわかると思いますが、しょっちゅう怒る先生がいたらその先生がいるときはちゃんとやるけど、いなくなったらまったくやらないという現象が起こります。
最初は自分が好きでやっていたことが、怒られるようになると「怒られたくないからちゃんとやる」に変わってしまいます。
こうなると自主性も何もありません。
その先生がいるからやるけど、いなくなったら手を抜く。
ただ、やらされているという状態になってしまいます。
これで果たしてうまくなるでしょうか?
サッカーで何かを学べるでしょうか?
体罰がなくても上手くなれる
これはボク自身の経験ですが、いつもこのブログで言っているように、ボクは小学生の5~6年の頃に一番上手くなりました。
本当に急激に上手くなったのです。
誰にも強制されることなく、誰にも『体罰』されることなく、ただ純粋にサッカーが好きで毎日飽きもせずサッカーをやっていた期間です。
人は純粋に好きになって夢中になれるときが一番伸びるときだと思っています。
ボクの経験だけでなく、海外のサッカーについての発信をみていると『体罰』や『罰則』がないのがわかります。
『体罰』『罰則』がない国の方がサッカーが強い事実から目をそらしてはいけないと思います。
本当に『体罰』や『理不尽な練習』が必要なら一昔前の日本は世界一になっていたはずですよね。
本当に正しい『厳しい指導』とはなんなのか?
ではボクら指導者ができる本当に正しい『厳しい指導』とはなんでしょうか?
前提として指導者の役割は
- 子どもに結果を出してもらうこと
- 子どもに成長してもらうこと
ですよね。
子ども達に結果を出してもらうための厳しい指導とは
高い基準を設けて、要求し続けること
これしかないんじゃないかと思っています。
例えば、サッカーの基本動作である『止める』『蹴る』の練習をするとします。
5~10メートルほどの距離を取り、対面でインサイドキックでパス交換をする練習です。
サッカーのレベルに関係なく出来る簡単な練習ですが、基準を高くするとプロでも難しい練習になります。
この場合の高い基準とは
- 利き足にパスを出す
- 出来る限り速いボールを蹴る
- すぐに蹴れる場所にピタっと止める
などです。
コーチから見て、この基準に満たないと思ったら「もっとピタっと止めよう!」「もっと速いパスを蹴ってみよう!」とどんどん要求していきます。
この指導に『怒鳴る』や『怒る』を使う必要はないことはわかりますよね。
もう一つ大事なこととして
子どもはすぐに出来るようにならないが、いつかは出来るようになる
これを心にとどめておきたいです。
指導者は子どもの可能性を1ミリでも疑ってはいけません。
いつか出来るようになれば、なんど失敗してもいいんです。
ただ、高い要求をし続けるだけです。
他の例としてシュート練習なら
- ゴールの四隅を狙う
- シュート前のトラップをピタっと止める
- できるだけ速いボールを蹴る
などですね。
もちろんいきなり完璧に出来ることはないので、少しずつ要求のレベルを上げていけばいいと思います。
ですが、妥協を許さず高い要求を出来るまで出し続けるのが、厳しい指導と言えるのではないでしょうか。
「それで完璧じゃないよ!」「もっともっと出来るよ!」と声がけをしてあげましょう。
そうすることで、子ども達も自分に期待をすることができるようになります。
自分でもできるんじゃないかと可能性を感じます。
基準を高くしてどんどんチャレンジさせてあげましょう。
ボクが言いたい『厳しい指導』はこれだけです。
指導者は自分にベクトルが向いた瞬間に終わる
先ほども言っていますが、指導者は生徒に結果を出してもらうのが仕事です。
生徒が成長していくことのみにベクトルを向けないといけません。
このベクトルは必ず生徒の方を向いていないといけないです。
ですが、指導者は孤独です。
自分の力を証明するために結果が欲しくなる時が必ず来ると思っています。
要は
指導者自身が勝ちたくなってしまう
ということです。
この状態になるとベクトルが自分の方向を向いています。
「自分が勝ちたい」「自分が結果を出したい」「自分が自分が」です。
こうなった時点で指導者は「勝利至上主義」になり、実質終わると思っています。
結局、『理不尽な練習』や『体罰』に走る確率が高くなります。
ボクは幸いにも今のところこのような状態には陥っていませんが、コーチをやる限り自分自身にいつもベクトル向いてる方向を問いかけ続けなくてはいけません。
「ベクトルは必ず子供たちの成長に向ける!」これを忘れてはいけないのです。
それがコーチをやる人の責任だと思っています。
まとめ:厳しい指導とは高い要求をすること
まとめ行きましょう!
今日のテーマは厳しい指導についてでした。
ボクの立場としては厳しい指導は必要だと思っています。
なぜなら、指導者の存在価値は子どもに結果を出させることだからです。
厳しい指導とは未だに多くの人が
- 理不尽な練習
- 叱責
- 体罰
をイメージすると思います。
ですが、ボクが今日紹介した厳しい指導は上記ではありません。
上記のような「行き過ぎた指導」は無くなればいいと思っています。
ボクが言う本当に正しい厳しい指導とは
高い基準を設けて、要求し続けること
子どもたちが望んだ結果を出させてあげることが指導者の役割です。
ですので、どんどん高い基準を設けて出来るように要求していけばいいです。
そこに『体罰』『叱責』『理不尽さ』は必要ありません。
ただただ、「君たちならもっとできるよ!」「そのパスじゃ上のレベルで通用しないよ!」と基準を上げていくように声がけするだけです。
高い要求を続けていけば自分自身に期待する事が出来るようになります。
ですので、生徒の可能性を信じて期待していきましょう。
指導者が出来ることはそれぐらいではないでしょうか。
以上、長くなりましたので今日はこの辺で終わります。
わからないことがあれば、お問い合わせフォームやX(Twitter)で直接聞いていただければお答えします。
最後まで読んで頂きありがとうございました。
少しでも皆様のサッカーライフが充実して、よりサッカーを好きになってくれたら嬉しいです。
サッカーさいこー
ブログさいこー
おしまい。